執 筆 中 。。。。。。。。   子供達へ。。。。。

私が 此処で 生まれ 此処で 終わるでしょう が 私の 生き様 書き残して おきます。 

恵まれ 過ぎた 環境 の中 父に 感謝。

恵まれ 過ぎる 教育 を 受け 母に 感謝。

事業 も 成功 35歳 で 東京から 全面 引き上げ この 大枚 何に 使おうか?

1年間 は 故郷で のんびり と 乗馬 ゴルフ 釣り ドライブ 旅行 ネオン街 を。。。。

故郷から 社会に 貢献を 。。。馬を 通して 子供の 未来に 全額 投資しよう。。。

サイドビジネスも そこそこ うまく行ってるので クラブから 給料は 頂かない。

だから 子供を 相手に 商売 しない。  を 理念で これまで。。。

【我が 人生 を 振り 返えれば。】

 

【乗馬倶楽部】   現在

(小生 人格者でも 尊敬される 人間でも 無い事は 自分が 良く 分っている。)ただ 人を 思いやる 心は 母から。。。。

北九州 若松 に 生まれ 中学から 東京で 青春を すごし 若松で 残りの 人生 未来を 背負う 子供達の 為に 

1人でも 2人でも。。。       *良い子 に 育だって 欲しい。   

 

学校 家庭で(今の親 祖父母は 甘すぎる。) 教えてない 事を 馬の 力を借り 生まれる 死ぬ。  泣く 笑う。 汗をかく。 

困まった人に 手を 差しのべ  人のせい にせず 自分一人の 力で 生きて 良い 悪い。 常識 非常識 が 

分かる 甘まったれ無い 元気な 子供が ここで 一人でも 育って 欲しい。


我が子は 奥さんに任せ きりで 立派な 社会人に。 ここを 卒業した 300人余りの 子らは皆 私の 自慢の 子供。 

社会に 出て それぞれ 活躍中。 残りの 人生 人の 為に 何が 出来るか を。 で。。。。。 


 

*甘やかされた 経験 から 疑獄に 落ち 這い上がる 迄を。

  

父は。 明治の男で 社員や 周りには とても 優しく 気を使い 身内には 厳しく 

           食事などは 母 や 姉達は 食堂の 1段 低い 所で する 姿が 当たり前の 生活。

 

新しい 物が 好きで 百貨店の 外商が いつも 来ていて 

 

テレビ 洗濯機 は 若松で 最初に 届いたとか。

 

とても オシャレで 既製品は 買わず 

 

下着 Yシャツ スーツ 子供達の 外出着 は 

 

 自宅にて オーダー。 

 

母にも 定期的に 呉服屋さんが 見えてました。

 


                         6人 家族   (左上 女中の シーチャン 右端 母の 父)

       

     飛行機も YS 11 初フライ に ムーンライトと 言って 

                       夜中に 飛び立ち 朝方 着き 家族 皆で 東京に 。

                                   銀座 スエヒロ の ステーキ 食べに。 

 

           年に 4、5回は 思いたったら すぐに 

                                    学校 休ませ 家族 旅行に  行き

                                                       思いでも 沢山 有った。

父の 仕事は 石炭が 出来る迄の 設備一式

 

(砕くクラッシャー 洗炭機 選別機 ベルトコンベアー ホッパー。 左上の 写真は 

    タワーを組み デレッキ と 言い 今の クレーンの 原型。 特許を 取る。)

 

 を組みたて 北は 北海道夕張 砂川 炭鉱 から

 

   大牟田  三池炭鉱 軍艦島 高島炭鉱 等 日本中 殆んどを。

 

       この 時 すでに 株式会社 と して 登記。

 

    

     私が 小5の時 建設省から インドに 総監督として 

 

         1年ほど行き その後 時代の流れで 製鉄所建設に

 

              移行し全国の 製鉄所等を ほぼ 建設。

 

 

 

インドから 帰って すぐ デパートの 外商に 調べさし

 

注文した 山積みの 中には 

 

木のケースに入った 今より 細い 瓶の コカ コーラ 

 

や 晩酌に ジォニウオッカ の 黒ラベルで 軽く 

 

 

毎晩 1本 空ける 酒豪 だった。。 

 

55年前の事。

 

(中央 が 父で 下の 女性 3人が メード さん。

           

          歓迎会 の 時 コーラ を 飲んだらしく。)

 

    一代で 財 を 築き 3000坪の 敷地 に 体育館 テニスコート 

         特に 10メートル近い 京都の 宮大工作の 五重の塔は 

           屋根に 銅版が 張られ 眼下には 大きな池から 

       ポンプで 酌み上げ小川が 流れ  7メートルの 滝を 

           流し そこには 大量の 鯉。

              日が暮れると 敷地の 散歩道 両側や

               植木並木 施設等 に

                     照明で ライトアップされ 

                                   見事でした。

 

                       (母の 真後ろから 滝が)    (右 上に 体育館)

体育館には 受付カウンターや 

 

舞台も 有り 卓球台が 

 

2台有り  7, 80人 が ダンス 

 

出来る 余裕の 広さ。

      毎年Xmas 忘年会 新年会 創立記念 には 社員、家族を 招き

     

      キャバレーの バンドマン 7, 8人 に

        

        演奏させ なじみの 芸者 ホステス が 世話 係。

 

料理は 行きつけの 料亭 すし屋 焼き鳥屋 から 板前を 呼び 真夜中迄 。


     何回かは 社員の 結婚式 も やりました。

 

       

     

 今 思えば 

               

           門から 玄関迄 

                     

              長い階段が 有り 

                  

                   小高い山に

 

                      巨大な石で 作くった 

                         

                              プールなみの 池や 


 

     五重の塔 体育館 テニスコート 大きな植木を 重機も 無い 時代に 

 

       どうやって 運んで 作った かが 不思議で?

 

    (この道 左に 池 階段左に 行き 五重の塔 横を 小川が 流れ 滝が。

             

             もっと 登り 右に 体育館 又 登り 左に テニスコート。)

 

母は。 荒くれ12人の 直系親方連中 孫受け 及び下請け 合わせて 700人近くの 若い衆から したわれ その家族を 自宅に 呼び          

     女中さん 2人 も 交え 料理や お花 ピアノ 琴 書道の 先生から 習い事を させる日々。

 

教育には 哲学を 持ち 幼稚園 小 中学校は

カトッリクの 私立に 若松からは 

 

男4人 女2人 しか 受からない 難関の 学校に

子供達を 入れたにも かかわらず 中学1年の中頃 

 

ある日突然 中央で 学ばないと 駄目だと 言われ

成人した 長女以外 すでに 長男は 大学が 決まり 

 

次女 私 2人 の 学校も 手配済みで 

 東京に 家も 買ってある から と 

 

兄弟 3人の 生活が 始まる。

 

 

 

 母は 毎月 上京して 足りない 物 補充して すぐ 帰る 生活。

私が 17の時 父は 事業を 各親方 に 独立させ 中でも 

北海道の 支社は 母の 故郷で 妹と 腕の良い 親方と 結婚させ 

 母の 兄弟 親戚 皆で 経営する様 社屋 社宅 機械 設備を  

すべて 譲り 1定の 額を 毎月 母に 送る様にして 離婚は せず 

 別宅にて 隠居生活。 所 が 送金 が 途切れとぎれ に なり 

来なくなり 醜い 争いが 続き 諦めた 母は 身内の 恥を 

父にも 言わず ひたすら 子供中心の 生活を 維持 する為 

 

        自宅の 鎧 刀 茶器 掛け軸 等 

              骨董品 を 売り 続けてた そうです。

 

何も 知らない 私は 毎休みには 若松に 帰り バイクの免許 が 欲しいと 

言えば 母が 父に 連絡し 試験も 受けず 写真を 渡すと 4.5日で 

警察の 方が 届けに 来ました。 

バイクも 当時の会社員の 2ヶ月分 相当の タイプが 違う 2台が

自宅に届いて いました。

愚痴 1つ 言わず いつも ニコニコと 。

その後 母も 東京に 居る事 が 多く なり 

進学して すぐの年に やたらと 何枚も 

セーターに 刺繍を してる 姿を 見て 

これが 内職なんだと 思い 

すべての 事情が 分かりました。 

それからと 言うもの お金を 稼がないと が 

いつも 頭に よぎり 見るもの 聞く事 すべて。

   父から 受け継いだ 事業家 の 血 が さわぐ。 兄は 中学から バレー 一筋。 立教 ビクター時代 全日本 の 選手に。

 

*東京で 成功した 数々 の 事業。

 

 小さい頃から 家に 出入りしていた 父の 右腕で 中央 から 地方の

 

  政治家 親分衆に 顔の きく かっぷくの 良い 謎めいた 小父チャン N に 

 

       金儲け したい と 頼む。

 

           人生の 分かれ道 良い 方向に。。。。

 

                         父 は 常ずね 政治家 を 動かす 人間に と。

 

【山砂販売】 (事業の 基礎)

 

当時 ザ.ピーナッツ の マネジャーを してた M氏が 独立するから 手伝えば と。

岬プロモーション と言い 1年程 マネジャー業を。 麹町の 日テレ 赤坂 TBSに 顔が利き 毎夜の 様に 

銀座で 飲む事が 多くなり ある夜中 彼と 別れ 1人で 帰る時 4町目 に 砂を積んだ 大型ダンプが 

長い列。しばらく 見てると 交差点に 敷かれてた 鉄板を クレーン車が 取り除き 中を 覗いて 見ると 

15メートルは 有る 長い 溝。 底には レール が 敷かれてる との 事。 これが 地下鉄銀座線 。

この線路 から 地面まで 全部を 埋め戻すにはかなりの 砂が。あくる日 も 夜中 見に行き ダンプ の 後を 

付いて行くと 川崎街道の 登戸 付近で そこにも 長い 列が。 かなり 遠くまで 積みに 行くのなら 近場に 

有れば 回数も 増やせる と 思い 今度は 朝早く 街道 沿いの もっと 近く を 見て周る 事 1時間。 

一休みで 腰を 降ろすと そばに 栗の 実が 落ちていて 拾いぎわ ふと 手で 掘って見ると 何と 

10センチ 程で 砂が。。。袋 に 詰めて 持ち帰る 途中 ダンプの 運転手 を 捉まえ 昼飯 ご馳走 

しながら情報 を 取る。すると 銀座線に とどまらず 今から何本 も 工事が 有ると 言う。 

砂を 見せると 今まで 積んでるのが C砂 らしく これは A に 近い B砂 だと言い 高く 売れるらしい。

連絡先 を 聞き 別れ 日を あらため 豪華な 手土産げ 自参で 栗畑 の 地主の所へ 行き 初手は 

収入が 気になり 今から 採れる栗を 全部 頂くと 御幾らですか? 

すると この実 は 小さくて 売り物にならないとの事。 チャンス 2の手 は ならば この 栗山 を 

平地に して 宅地に するのは どうですか と 切り出し 造成代金が 払えないと 言うので 分譲地 にして 

売れる 度に 5パーセント 下さいで 話が 付き 後日 契約 公正証書に。

すぐさま 運転手 に 連絡し 山を 削る 積み込む 重機 など 相談。 彼も 乗り気で 知り合い の 中古重機屋や

オペレーターを 紹介 してくれる 所まで 話が 進む。

今後の 計画。 利権 資金 事務所 会社設立 人材 等。

プロダクション の 社長 に 事情 説明 すると 利権は 銀座の 侠客で 通称 銀座警察 に頼んで 上げると 

会わせて もらい 気に入られ すんなり 話が 付く。 

ならば 急いで 本を 買い 調べ 自力で 会社登記 を 済ませ 社名は 株式会社 皇和。 企画書 を 作成し 

登戸駅前に 2部屋の 事務所を 借り 地元の 信金から 自宅を 担保に 借り入れ 当座を 開設し 約束手形で 

コマツの 中古重機の 押しブル 湿地ブル バケットショベル 三台 を 購入 し すぐさま 現場入り口に 

中古コンテナにて 受付と看板。 知り合った 運転手 と 知人の ダンプで 残土を 埋め戻し用に 売る手配を 

頼み その間 オペレター2人 に 砂が 出るまで 皮むきし A砂と 銀座用B砂 に 分け 準備 が 整い 

 真新しい ユニホーム ヘルッメト で 午後10時から 営業開始。

長い長い 列が出来 積めない ダンプが。 翌日 コマツから バケットショベル を 2台 購入し 流れが 出来た。

10トン 1台 積むのに ショベル 4杯が 適量 で 5千円を 頂き 運転手に ¥500 渡す。わずか 10分たらず。

今まで 4回が 1回増え おまけに ¥2500の 小使いが 口聞きで 好評。

オペレター 1人 雇い 3人で 1晩で 40万の 売上。昼間は 知り合った 運転手 と 知人の ダンプ の 

ローン を 肩代りして 我が社の 社名 を 入れ 残土販売や A砂を 鹿島建設に 納入させる。 

初月売上 1400万。 なんと 初年度 年商1億6千万円。 大学 3回生 22才。

 

流れが 出来 現場には 週2日程度に。 売上金は 翌日 信金が 回集に。 

 

この 事業 高度成長バブル期で 地下鉄 何本も 同時に 。

 

今度は 守りの 財務 を 勉強。 次なる 野望に かかる。

 

17年 続ずく。 怖いもの 無し。高級スーツ に 髭 たくわえ 

 

毎夜 赤坂 六本木 青山 の クラブ に 大勢で。 思えば クダラナイ 時期。

 

政治 献金 も かなり 入れ 顔 ツナギ 情報 取る。 

【芸能界】 皇和プロモーション

        制作事業部(プルミエプロモーション)    作品  http://premier-international.co.jp/film1.html

 

別会社 皇和プロモーション  を 立ち上げ 以前 学んだ 赤坂岬プロモーション と 

 

提携し 映画 テレビドラマ 歌番組 お笑い 芸能界全般と 広告関係 で 幅 広く。

 

事務所は TBS と 赤坂自動車教習所 の 間に 水戸光 ビル の1階 で 

 

2階が 美空ひばりさん の 自宅 兼 事務所 隣が 和田アキ子 など

 

 勢いの 有る タレント が 多い サン ミュージック 近くに ホリプロ ナベプロ が 有り 

 

 その頃は 赤坂でないと 一流の プロダクション と 

                              認めない くらい 数多く 有りました。   

      今でこそ タレント ゴチャ混ぜ 状態 ですが 当時 ランクが 定められ

 

            歌舞伎役者・ 映画スター・ ドラマ役者・ 歌手・ 色物芸人 お笑い芸人。 

  の 順で 上下関係は 厳しく 局内 廊下でも 壁に 待ち 先に 通した モノでした。

 

マネジャーは 紺の スーツで 社長 の次に 権限持ち 現場では 監督 ディレクターが。

 

  今の お笑い タレント 見てると 我が物 顔に 役者さん 歌手に ディレクターに タメ口で。

             

 

 

 

裕次郎さんや 石原プロ の 銭谷さん と 出会い プロダクションの 業務に


     関心抱き 皇和プロモーション を 設立。


特に クレイジーの 犬塚 弘さん 歌手の 田辺 靖男さんの お兄さん 達と

 

                                色んな 番組 を 手がける。


          中でも バラエテイーの 走りで ゲバゲバ90分 が 印象的。


この世界 派手な だけで 身に 成らないと 思い 他の 事業に 力 を 入れる。 

 

【C.F 広告】 皇和エンタープライズ

 

  皇和エンタープライズ では 店頭 看板 言わゆる 店先きに 

 

      ペプシコーラの ロゴの 上に 店名 宣伝コメント 入れ

 

    夜に蛍光灯にて 明かり出し 集客。持ち運べる 大きさで 閉店後には 店内に。 

 

       広告 最大手の 博報堂 と 全国 展開。

 

         テレビCM では 当時 30から60秒CM が 主流を 

 

スター千一夜 に 90秒CMで 話題を取る。 

 

【衣料流通センター】 < プルミエ 赤坂店 >

 

 構想を 練っていた 貿易 流通卸 に 進む為 当時100億の 商いを してた 友人の

衣料量販店 から 大量の 在庫を アイテム バランス 良く 着払いのみで 送る 話をし

場所 を 赤坂TBS前の 一ツ木通り 商店街と 決めてたので 顔なじみの 老夫婦 の 間口

四間 の バイク 修理店 を 安く 借り 内装は 壁一面 紅白の 垂れ幕のみ で パイプを

天井から ぶら下げ スーツ ジャケット コート 1万点余り を 掛け ¥500から ¥9.800まで スラックス Yシャツ ニット ネクタイ は 破格値で ワゴン20台 に 山積み。

すべて 委託商品 で 彼の 所も 倉庫代 が かからず 仕入れ は ゼロ。

その後 ROC流通卸センター 青山 はるやま 等 が 展開 してくる。

その頃 1人 の 男 との 出会いが 今後 の 事業 に 弾みを つける。

九州から 仕入れ部隊が 月に 3.4回 来ては 手伝わせてる 所に いつも 立ち止まり 

店の 中を 見てる 男。見るからに みすぼらしく いつも 同じ 服装に サンダル 姿。

赤坂には 似つかわない 男から 君たち 九州の 人ですか と 声を かけてきた。

実は 彼も 福岡 だと 言い 毎朝 一緒に 前の店 立田野 で ぜんざい を 食べ 親しくなる。(スタッフも加え ミィーティング)。

彼は 無線通信の 学校から 船で 香港に 実習 に 行った折 出港に 間に合わず そのまま 10年 居たと言う。

その間 船舶王 の シェイ さんに 拾われ 書生と して 住み込み 。

信頼され 赤坂の マンションに クリスチャン デイオール の ウィグ の 権利を もらい 東京事務所 を 出してもらった らしい。 

 欲もなく 見るからに 年寄り の 様に 毎日 ぶらぶら 散歩だけ。聞くと 私と 同じ年。その後 おんじい の 愛称 で。

一風 変った 生き方に 興味を 持ち 意気投合。 貿易に 関しては 海外へ テッレクスや 通訳 等 私の 右腕に。 

 

次は 貿易と 貸衣装部門 に 手を 出す。

 

【貿易】 皇和エンタープライズ

       ( 売れ筋 は 白の 貝殻をチエーン 一面に 真ん中に ブルーの ターコイズが 主流。)

 以前 L.Aに 行った折に 現地の サーファーが 日に焼けた 肌に 貝殻のネックレスをしてるの 見て いずれ 日本の若者も と 思い 10種類 ほど デザインして 2人で フィリッピン セブ島で 貝殻 手配 その足で  シェイの 居る 香港に。 香港島の 裏側に 如何わしい 町工場を 紹介して 頂き もっと素敵な プカシェル が 出来 帰国後 青山 鈴や クレジットの 丸井(O1O1) に サンプル 見せ 広報も 乗り気で全国の 支店に 配布 店長の 意見聞き 全店 欲しい と。 早速 三角の クルクル廻る サンプル スタンドに 1面 10本を 計30種類 ぶら下げ 在庫20本ずつ 

1店舗 600本 12支店 で 7200本 受注。 丸井(O1O1) は その 半分 位。  その後 全国的に 広がる。

半月後 納品 するも 飛ぶように 売れ テッレクスで フィリッピン 香港 発注 いわゆる 3国間貿易。月に2.3度の 割りで 出向き セブの子に 大量の  子供服 文具  持参で 貝殻を 集めて もらい 香港の 工場に 輸出 手配。出来たら 日本に 空輸。

本来 白の プカシェル に ブルー ターコイズが メイン。かなり の ブームで 続く。

 

【 貸衣装 】(ピエール カルダン)


貸衣装の ドレス シャツ は 首周りの 4サイズ だけ 作り 腕の長さ 胴回り 

すべて 大きめ。なぜなら タキシイード 着れば 中で 腕輪で 胴は 

安全ピンで 合わせた事 分からない。この分野 だけ 手がける。

後は 付加価値に 博報堂の 専務に 頼み エイジェント の 

百貨店 高島屋さん から 貸衣装部門 の 使用許可 契約。

ダーツだけの シンプルなのと フリルほどこした デザイン 考え 色を 

白 サックス ライトピンク 3色に 2デザイン 4サイズ これなら 好利益。

全国の 貸衣装店 からの 注文を 後輩の ネクタイ問屋 を 窓口にして 

月の 集計 出来たら 我が社に 数字を。

船橋の シャツ工場に発注 出来上り 次第 後輩の会社に 送らせ 各店配送。

貸衣装店 からは 我が社に 振込。

貸衣装の ウエディングドレス タキシード 靴 小物は 

当社が ロイヤリティー を 収入。

この部門 のみ 九州に 帰っても 月 3.4日の 仕事で 出来るので 

続け 月に 100万程度の 利益。

【おふくろ料理】 (日立本社地下商店街 虎ノ門)

 

以前 お手伝い 勉強 した 岬プロの 奥さんの お店を 

権利譲渡 してもらい お袋に 運営 まかす。

地方から 着てる サラリーマン 向けに メニュー 作り。 

まず 麦ご飯 味噌汁か 豚汁。定食は さんま 塩さば ニシン。

入り口に 大皿3個 中身は おから 切干大根 ひじき 

取り放題の 小鉢。

人気呼び 30席を 4回転。

 昼 夕で 月 250万位。

 

       <おふくろ の 味> 店舗 前に

           

<プルミエ 新橋店> 2号店   10坪 ほどの 空き店舗 借り 

 

           ネクタイ シャツ 靴下 小物専門の 

 

            赤坂プルミエ 2号店も 出す。 

 

              そこそこ 売れる。

 

        九州に 帰る時 2店舗を

 

          居抜きで  かなり 良い条件で 譲渡。

【宝石 毛皮】

赤坂店の 角に 毛皮 宝石 の コーナー を 増設。 毛皮は 試作 

サンプル 在庫 を 格安で 販売。その 訳は 今でこそ にぎやかな 原宿 

竹下通り ですが 当時 まだ 砂利道で 7.8店舗 ほどで ロイヤルを

原宿駅に 向い すぐ右側に そば屋の 2階に 毛皮の 卸屋が 有り 

香港の ルートから 逆に 卸してあげ 買い付けにも 連れて 行く。

宝石 は 以前 父が 国の 仕事で インドに 行った 折 ダイヤから 

エメ ルビー オパール キャッツ アイ 色んな 裸石を200個 ほど 

母に 土産で 買ってた のを 上野の 宝石卸し街で クズダイヤ を 

回りに 散りばめ た 指輪 ペンダントを作り 赤坂店で 販売。 

豪華さも 有り 海外 買い付け にて 価格も 抑え てたので 良く売れました。

 

毛皮の 商いは 後輩の 会社に 引き継がせ 顧問料 頂く。

 

【乗馬倶楽部】

   【会 社 名】   株式会社 若松乗馬倶楽部 

   【英文社名】            CO.,LTD  WAKAMATU RAIDINGU CLUB

  

    【設立年月日】         昭和53年4月20日   (1978年)

      

    【資本金】           10,000,000円 

 

     【役  員】            代表取締役   木坂 昶彦 (キサカノブヒコ)

 

35年 前に この様な クラブ ハウス は 珍しく クラブ開設 する 方々が 

至る所 から 見学に 来られ ました。

当 クラブの 資料を 全部 渡し 説明し 参考にと 喜ばれる。

 

すでに 株式会社 の 形態 にて スタート し  会員種類 規約 料金体系 

システム 完璧にし 地元 大手デパート 井筒屋 の 外商部 に 毛皮 宝石 と

 一諸 に 会員権 を 販売 して もらい 毎月 2、 30人の 入会。 

1階 正面に 馬具  コーナー も 出来 そこで  会員権 が 主な 営業。

その後 FBS の カルチァーセンター 共 提携し 生徒 も 増える。

乗馬倶楽部 理念

 

他の 乗馬クラブで 子供たちを 食い物に 荒稼ぎの 末 駄目に なった 子 沢山 見てきた。

    だから 子供を 相手に 商売 しない。 クラブから 給料は 頂かない を 理念で 35年間。

競技に のぼせ過ぎ 親に せがみ 高い 上ラン ヘルメット キュロット 皮長 で 15. 6万。 鞍に 要たてっは 40万前後。それに エントリ- 経費 1試合 約4. 5万。年に 数回も。

しかも 余裕有る 馬の 能力 を下げ 楽な 演技 高さを エントリー し 先生が

先乗りし 馬に コースを 覚えさし あたかも 自分一人で 入賞 したかの 様に。

馬の力 8割 わずか 2. 3分の 競技。 他では 考えられない。

部活では 県大会に 出る為 体力作り 朝練 暗くなる まで。 土,日 夏 冬 春休み 1日と 休めず 練習。

40人近くの 部員から 県大会に 選ばれるのは 4. 5人。 頑張ってる。 

仲間の 心も 分からない 子らは 他のクラブに 行っていい。 

35年 見て来たが そんな 子らは 社会に出て 自分の力で 競技に 出れないから 馬から 皆 離れている。

   (今の 親 祖父母は 少子化で 甘やかせすぎて 何百万の 馬を 買い 与え 高い おもちゃ 。)

乗馬 馬術 界 改革

乗馬 馬術 を 日本に 定着 させ 早く 社会に 認知 され クラブの 運営 が 安定させ まず 税金 納めないと。

上部団体 の 組織全体が 学生馬術 の 延長で 理事 以下 皆 目先の 競技に 走り 大学以下の 子供を 

 育て 底辺拡大 して 素質有る 人材 探すべく 日本乗馬少年団連盟 の 機能は 予算消化 程度で 団体は 減少

少子化で お金持ちの 子供に 理事が 馬を 売り 推薦で 我が 母校に 入れ 勝った 負けた に 補助金 使い 

66年 が 過ぎ 近年の 機関紙 馬術情報 は Jr,の 表紙 記事 が やたらと 多い。 親を 喜ばす為 か?

お金 使い 数 多く 乗り そこそこ の 馬 買えば 今の 選考 基準 なら 国体 までは 誰でも 出れる。

日本乗馬協会から 日本馬術連盟 になり 本年4月に 公益社団法人 への移行 したらしく 将来の 馬術界 を 

どうするか 見直して 欲しい ものです。

 

(社)乗馬倶楽部振興協会 地区会長

この 団体に 期待せず 立ち上がった のが 乗馬倶楽部連合会。 当初 の 趣旨 は 乗馬 クラブが ご飯が 

食べれる 様に と アバロン の 武宮会長が 発足し JRA 農林省 から 予算 頂き あらゆる 補助金を 

末端の クラブに 配り 良い方向に 向かってる 矢先に 天下り 先に される。

武宮会長 理事の 前 小倉競馬場の 場長 Aさん 北海道の 会長 Tさん 関東の 会長 Tさん それと 私 5人で 

何回か 武宮先生宅に 集まり 朝まで 激論の 末 我々で 初心の 連合会を 作り 変るべく 天下り 2名 を 退いて頂き 乗馬倶楽部振興協会 を立ち上げた 末には 社団法人 化 して 力を 付けようと 前 農林大臣を 

(社)乗馬倶楽部振興協会 会長に なって頂き 先生は 副会長に。

武宮先生は 陰ながら 全国を 飛び回り 見る見る この世界 良くなりつつ 有り 尊敬 しつつ 見習おうと。

営業インストラクター を 育て 若者が 憧れる 職場を。 底辺を 広げるべく 日本馬術連盟から 乗馬少年団連盟 を 

我が方にと 持ちかけるが アッサリ 断られる。 何故なら ここも JRA 文部賞 からの 予算 減るから 。 

後に (社)乗馬倶楽部振興協会 誕生 です。

(社)乗馬倶楽部振興協会 の 初代 地区会長に 就任 したおり も 天下り が 酷く 中央の 1部の 意見のみの

流れに 変わり 全国会長会議 で 地方の 要望 聞き入れて もらえず 再三 提案 するも あげく 議長 に 

祭り上げられ 進行役 に。 全国会長会議 そのもの も 旅費 宿泊 宴会 など 参勤交代 もどき で 決定権 なし。

ならば クラブの 数 増やし 日本中で 加盟クラブ 1番多く して 理事 になり  乗馬の 世界を 変えようと したが 

武宮先生 が 会長に 据え置かれて からは 我が方の 方向性も 鈍り 競技団体クラブの オーナーが 地区会長 

になり 第二の 日馬連 化 してきた。 武宮会長 も お年を めされ オーナー達の 意見を 取り入れだす。

この団体も 変革の 時期 次の リーダー も 無く 本部のみ 安泰 又しても 地方 は 置いてきぼり。 夢 破れる。

私 会長 退き 十数年 何も 変わってない。ならば 我が クラブだけでも 理想を 求めて 地道に やるしか 無い。

全乗協 ホーム ページに ※朝日新聞社に無断で転載することを禁止します。 が 出てた。 

会長の 責任 (津屋崎乗馬倶楽部オープン)(総会)

地区 会員 脱退の 折 数 維持する為 条件的には 明らかに 悪く 再投資 周りに クラブ数 多く 人材の 確保。等々

やるしかない。 方向性 は 若松 乗馬普及を。 津屋崎は 競技を 目的にと。 

ならば 中央で 活躍してる ライダーが 必要。

設備は 森から BGM 流し 到る所に ライト アップ テーマは 音と 光の モニュメント。 くつろげる クラブ ハウス 

シャワールーム 2箇所の お風呂 2階建ての宿泊設備 。

信念は 変えられず 子供達 育てる事 に 力を 注ぎ 昭和54年 から 35年間 の 

月謝 ¥3500で 募集 すぐ様 定員に。

初期投資 かなり かけ 5年間 赤字 覚悟で スタート。

その後 直方の 乗馬少年団の 卒業生が 乗馬クラブ オープンし 資金 が 苦しいと 親子で お金 貸して 欲しいと 来られ   父親が 保障 するからと  450万 貸すも すぐに 2人共 自己破産 手続きし 音沙汰なし。

クラブ数 維持 する為 5分5分 の 選択。

C○Rクラブ 法人化 する時 資本金 貸し 軌道に 乗るまで 何度も 貸したり。 馬 足りない 所には 寄贈 したり 

欲しいと 言う馬を 買って来ては 半値で 分けたり。 加入クラブ 皆 早く 軌道に 乗り 良くなればと。 

週に 1度は 加入してない クラブを 説明に 訪ねたり 定期的に 全クラブ 廻り トラブル の 相談 仲介役 近くの 会長との 交流 情報交換 に 山口 阿蘇 大分 走り 廻り 我が倶楽部 犠牲の 期間でした。

総会の 形も 皆が 仲良く わだかまりを 取り 楽しく 食事したり 宿泊を 取り入れ 夜 遅くまで お話したり と 

出席して 良かった 思われる 様に あの手 この手で。

武宮さんが これからの 乗馬クラブ 改革 信念 を お手伝い。

会長 交代の 誤算

武宮先生 から 責任 取れと 言われた 事は ホースショー の 前日 指導者競技会 を した折の 事。 

県馬場 2階の 和室で 立食パーティー の 席上 明日 来れない 指導者 多く 酒席で 賞金 賞状 渡した事。

担当クラブが 書いた 賞状の 大石 武一会長 の 文字が ボールペン で 書いた 様な 細い 筆文字に 怒り。

 

加盟クラブ 2倍以上に 増やし 日本一の クラブ数に。 地方の 発言を 理事会で 替える事。 のみ 頑張った。

その年 任期 が 来る。

総会 欠席 し 加盟クラブの 判断 委ね 選挙にと 代理人 事務局S に 伝え クラブで 待つ。 

結果 は 分から ないが 。。。。

付き添いの T に 聞けば 車中 総会の 中身 会話 無く 自分の 洋服 靴 おかしく 無いか とか 誰々さん 来るかね とか どんな 料理かね の 話のみ との事。 大勢の 場に 出ると ハシャギ 舞い上がる 性格に 後で分かる。

 T 口に 頼べば と 後悔 。 任期中 我が クラブ の 事 より まず 改革のみ に エネルギー を 注いだ 。  

 

出来事        唯一 趣味は 車。

      20数年前

 団体 代表の 5階建て 自宅 完成祝いに 息子さんから 頼まれ ファラベラ 2頭 600万円を 

  以前 取引してた アルゼンチンの 友人に 手配してもらい 輸入。

次く 

 

* 東日本大震災 は ショック でした。 

  行方不明者 が 早く 見つかり ご家族の 元に 帰られる 事を 毎日 新聞掲載 見てます。

  国を 上げて 捜索 して 欲しい ものです。 1日も 早く 0人に なる日を。 

住居  3ケ所。    本籍 東京都 港区 高輪 2丁目

 

    * 高輪プリンスホテル と 四十七士 で おなじみ の 泉岳寺 の 間に 秀和レジデンス 3LDK マンション購入。

                                  (当時新築 850万で 購入。 東京 引き揚げる 時点 売却 価格 2450万。) 

     * 川崎 登戸の 事務所 兼 2部屋。

    * 赤坂みすじ通り。 政治家の 密談料亭の 並びに 八百屋さんの 茶室 と 庭に 台所 風呂 トイレ 増築し

       安く借り 家賃 8万。TBS 横の 駐車場 は 9万。

 

    現在  クラブ 近くの 北九州市若松区高須西2丁目5

 

山砂販売 (事業の 基礎)

プロダクション (CM 広告)

流通センタ-(衣料)

貿易 (3国間 )

貸衣装 (ピエール カルダン)

おふくろ料理 (日立本社)

宝石 毛皮 卸

ウイッグ (カツラ) ディオール

乗馬 倶楽部

 

 

      1誕生から13歳まで 若松                  13年間。

 

   32歳まで 東京にて 青年期                 22年間。

   その年 若松に 帰り 乗馬クラブ 開設   

   東京の 事業 と クラブ運営に 3年間 往復。         (19年+3年)

 

   32歳から 35年間 未来の 子供達の為に 乗馬クラブを。

    残りの 人生 人の 役に立つ事を やりとげ 悔いの無い 良い 死に方を 。

よしやと 10年間 良く 外国の色んな 所へ 旅行 しました。

 

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